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世界牡蠣研究家
山本紀久雄

オランダの牡蠣事情を紹介する前に、オランダという国の特殊性を検討してみたい。
この国がたどってきた繁栄と挫折、そこから這いずりあがってきた現在の姿を検討することが必要である。

現在のオランダ

まずは現在のオランダである。軍事的覇権を持たず、経済の繁栄に専念し、風車とチューリップの平和な国というイメージであるが、実は、世界の中で強国といえる一面を保有している。オランダの国土面積は日本の九州ほどの大きさで、人口も1,600万人余りの小国であるが、国際社会における「存在感」は大きい。
その事例を挙げると、まずは、国連児童基金(ユニセフ)の「子供の幸福度」であるが、2013年度調査(日経新聞2013.12.25)でオランダは一位となっている。

2007年の同調査でもオランダの子供たちは先進21カ国中、幸福度第1位に輝いている。
さらに、WHO(世界保健機関)による子供たちの健康行動調査では、「学校の勉強にストレスを感じているか」という質問に対して、北米・ロシア・ヨーロッパを含む35地域の中でオランダは35位。つまり最も子供たちが勉強にストレスを感じていない国ということになっている。しかも学力においても2009年度のOECDのPISA(Programme for International Student Assessment)の結果で、欧米の中ではフィンランドに次いで高い。読解力や数学的リテラシー、科学的リテラシーなどが総合的にバランス良くのである。

次は農業である。林芳正農林水産大臣の講演を聞く機会があった。(2013.12.9)
この講演のタイトルは「農林水産業・地域の活力創造に向けて」であるが、この中で日本が目指す農業のあるべき姿としてオランダのワーヘニンゲン大学研究センター訪問時のことを紹介した。ワーヘニンゲン大学はアムステルダムから特急電車で南東に約1時間、ヘルダーラント州のワーヘニンゲン市に位置している。人口3万5,000人ほどの小さなまちだが、1945年、オランダとドイツの平和協定が締結されたところとしてオランダではよく知られている。 林大臣は、ここの園芸施設は広さ4ヘクタール、高さ8メートルの大型ガラス温室設備で、通常5人での作業で行い、剪定と出荷梱包時だけ日雇い人数を増やし、高い生産技術を活用し計画生産を行っていると述べた。

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オランダの大型ガラス温室設備による農業、生産する野菜はトマト、パプリカ、キューリの3品目で全体の90%を占め、自然光植物工場で使用されるコンピューターソフトウェアのほとんどはオランダ製となっている。
植物工場の経営と運用には環境制御・経営管理の面できわめて複雑なソフトウェアが求められ、現段階でオランダが世界で抜きんでているという。オランダで生産されたタマネギは、その9割が輸出され、トマトやパプリカも70~80%は輸出されているように、国土が狭く、ネーデルラント(低地の国)のオランダが世界最大の「農業ビジネス国」となっている。農産物の輸出額から輸入額を引いた「純輸出額」でも279億ドル、世界一である。(2007年実績)

オランダの過去の挫折

オランダは過去に大きな国家挫折を味わっている。かつてオランダは世界の覇権国であったのである。
アメリカの歴史学者ウォーラーステインは「歴史上最初の『ヘゲモニー(覇権)国家』は1625-75年のオランダであった。それからイギリス(1818-73)が続き、最後がアメリカ(1945-67)である」と述べている。

イギリスがヘゲモニー国家であって、それが第二次世界大戦後アメリカに移ったことは、よく知られているが、その前にオランダが覇権を握っていたという事実を多くの人は知らない。そこで、最初に、オランダの国土の特徴を整理し、その歴史について少し分析してみたいと思う。

ネーデルラント(低地の国)
ネーデルラントとは「低地の国々」という意味を持ち、ネーデルラント(オランダ語: Nederlanden 、英語: Netherlands )と書くように、日本語で原語に基づいて表現すると、「オランダ」は「ネーデルラント」と呼ぶのが正しい。そのオランダは国土の約四分の一が海面下にある。オランダに入るには、通常、アムステルダムのスキポール(オランダ語の発音ではヒッポルの方が近い)空港を利用するが、そこが海面下であることを知る人は少ない。その状態を図示すると以下のようになる。因みに、スキポールとは「船の墓場(空洞)」の意で、かつてそこが船をのみこんだ海であったことを示している。


(オランダの歴史 佐藤弘幸著)

今回のオランダ行はアムステルダム空港を利用せず、ベルギー・ブリッセルからオランダ南西部のゼーラント州(Zeeland、海の国の意)、州都はミデルブルフ。そこから東に向かった海岸のイアーセーケへ車で向かった。下図のように、イアーセーケは明らかにアムステルダムより、ブリッセルからの方が近いからであり、約一時間で着く。


同行してくれたブリッセル在住の通訳女性、ベルギー人と日本人女性とのハーフであるが、彼女曰く「オランダ語とベルギー語は少し発音が違うだけだ」という。したがって、彼女のベルギー語でオランダでは十分伝わるのだという。この言葉に少し疑問を持つ。というのもフランスとドイツは隣り合っているが、フランス語とドイツ語では全く文法も語感も発音も異なる。ところが、オランダとベルギーはほぼ同じであるという。確かに、通訳女性のベルギー語でイアーセーケの会話はスムースに進み、何も問題がない。

何故だろう。何か歴史的な背景があるに違いない。実は、ネーデルラント=「低地の国々」を指すのは、現在のオランダとベルギーとルクセンブルクの3ヶ国にあたり、この三国はもともと一つの国であり、今でもベネルクス Benelux として緊密な経済協力を行っている。Beneluxとは、それぞれの国名の初めの方の文字から成る頭字語である。

  • België/Belgique - ベルギー
  • Nederland - ネーデルラント(オランダ)
  • Luxembourg - ルクセンブルク

つまり、「オランダ語とベルギー語は少し発音が違うだけだ」ということは、日本でいう地方の方言程度の違いという意味で、ベルギー語でも十分伝わるのである。
 
オランダの歴史について触れだすと、長い説明が必要になる。そこで、オランダがそれまで縁もゆかりもなかったスペインの支配下に入ったタイミングから語りたい。この当時、一国の継承は国王交代によってなされていくというのが実態であって、現在の感覚で考えると判断を誤る。つまり、当時は政略結婚が常識であった。ネーデルラントは、それまでブルゴーニュ領であったが、1447年、ハプスブルグのマクシミリアンからカール五世の統治下に入り、それが1555年まで続き、カール五世の子、スペイン王フィリップ二世に継承された。

そもそもネーデルランドがブルゴーニュ領となったのは、ブルゴーニュ侯爵家がネーデルランド諸侯との間に営々として通婚政策を行ってきた結果で、このブルゴーニュ女侯爵マリーが、神聖ローの帝国の継承者たるハプスブルグ家のマクシミリアンと結婚した。この当時の慣習で、二つの領主が結婚しただけでは、二つの領土は一緒にならない。二人の間に子が生まれて、はじめてその子が二つの領土の領主となる。マリーとマクシミリアンの間にフィリップが生まれ、フィリップはスペイン帝国の後継者ジョアンナと結婚。その子のカール五世が神聖ローマ帝国皇帝位を継いだ。

その結果、カール五世はドイツ帝国、スペイン、イタリアのほぼ半分、ネーデルラントと、新世界を含め君臨することになった。さらに、カール五世はポルドガル王女のイサベラと結婚し、その子スペイン王フィリップ二世に継承され、1555年にネーデルラントはスペイン領となったわけである。この当時、ネーデルラントにはプロテスタント(新教)のルター派が広まっていた。しかし、フィリップ二世はカトリック(旧教)であったので、プロテスタントへの歴史に名高いネーデルラントの異端迫害を始めた。

異端の定義は簡単である。協会のカトリック僧の説教に出席しない者は捕えられ、もしその者が自宅でバイブルを読んで礼拝していれば異端となった。また、ローマ教会の悪口を一言でもいえば、これも異端であった。
宗教裁判所は毎日のようにあり、その犠牲者を絞首台や火刑とした。スペイン人の僧侶たちはキリストの名の下に犠牲者を葬り、その財産を奪い取った。スペインの虐政は新大陸征服以来の習慣であった。新大陸では火と剣をもって異教徒をしたがえ、したがわぬ者は殺し、その財産を当然の権利として略奪したが、これをネーデルラントでも実行したのである。

ここにオランダの独立と自由のために貢献する民族の英雄、オレンジ公ウィリアムが登場し、いわゆる80年戦争であるが、ウィリアム父子四代を中心として、オランダの各地で凄惨な戦いを続けた。これを述べ始めると膨大な紙数となるので省略する。スペインからの独立のきっかけは、イギリスがスペイン無敵艦隊を敗退させたことである。1588年、スペイン無敵艦隊がスペインを出航した時は134隻・3万人であったが、廃船同様の有様で帰還したのは53隻・1万人に満たず、名だたるスペイン貴族が数多く失われた。

陸上ではオランダ・ウィリアムの嗣子マウリッツの活躍により1591年から97年にかけて、オランダ領からスペイン軍を駆逐し、ほぼ現在のオランダ領を支配下におくことに成功した。また、スペインは無敵艦隊の敗北後、スペインの海上主敵はイギリスとなり、陸上での主要目標はフランスとなったので、オランダにあまり介入しなくなった。
これには理由があった。スペインは無敵艦隊を再建する必要があり、そのためには木材をはじめとする造船資材を大量に求めなければならないが、そのためにはオランダ船を使う中継貿易が必要であったからである。後年、オランダが七つの海に覇を唱えるようになったのは、この1590年から98年までのスペインとの貿易のおかげであった。

その後、フランスと平和条約を結んだスペインが、改めてオランダを見つめてみると、イギリスとスペインの海上覇権争いの間に、漁夫の利を得て経済は躍進し、統一国家として確立、海上ではイギリス海軍と組んでスペインに対抗するまでになっていた。そこで再び、スペインはオランダ経済封鎖をすべく、オランダとの貿易を禁止したが、そのころにはオランダはスペインとポルトガルを経由せず、直接にカリブ海、ベネズェラ、ニューグラナダ、東インドまで進出するようになって、逆に、オランダ船はスペイン船を待ち伏せし、その財宝を奪うまでになり、とうとうスペイン側から1609年に休戦を求めるまでになった。

この戦いを80年戦争と称するが、1648年のドイツ西部ウェストファリアのミュンステル市での講和条約によって終り、ネーデルラント17州のうちユトレヒト同盟を結んだ北部7州はネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、宗教がカトリック(旧教)である南部諸州はスペインの支配下に留まった。この南ネーデルラントが現在のベルギーになっていく。

次に述べなければいけないのは日本との関係である。

オランダが東インド会社を設立したのは、イギリスの東インド会社の設立に2年遅れた1602年であったが、たちまちのうちにイギリスを凌駕した。結果としてオランダ東インド会社は、巨利を博するのに慣れて、地道な海運業から独占貿易の方に精力を費やした。香料や胡椒の独占に成功すると、価格を上げて利益を増やすという政策であった。日本の場合も同様で、鎖国と日本側では称しているが、世界の貿易システムから見れば、日本貿易がオランダに独占されたといえる。

また、スペインやポルトガルが対日貿易から外された背景には、ヤン・ヨーステン、三浦按心などが幕府に対しカトリック(旧教)国を誹謗中傷したことがオランダ独占=鎖国につながったともいえる。三浦按針は、本名をウィリアム・アダムズと言い、1564年のイギリス生まれ、のちに、オランダのファン・ハーヘン会社の東洋探検隊に加わり、リーフデ号の航海長として東洋へ向かい、 慶長五年(1600)台風に遭い、生き残った乗員二十四名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着した。徳川家康は、三浦按針を高く評価し、政治・外交顧問として重く用い、江戸日本橋に屋敷を与えたほどであった。

世界の貿易を制したオランダは、当然ながら国は豊かになった。「国全体が一つのつながった町のようであり、オランダの町々は世界で最も素晴らしいものであって、すべての国の人々がその美を鑑賞しようと集まってくる」(1615年・ロシアの外交使節)「オランダの家はこの国の物の中で、最も眼を喜ばせてくれる美しいものである。英国の家ほど壮大ではないが、金のかかっているという点と美麗さではイギリスの家をはるかに凌駕する。外見よりも内装はさらに立派である。どんな貧乏な家でも絵画が飾ってあり、装飾品のない家はない」(イギリスの旅行者)「ヨーロッパは、オランダからほとんどすべてのことを学んだ。オランダは、農村に対しては合理的な近代農業を教えた。オランダは航海と発見の先駆者であり、近代における合理的な商業制度の創始者である。

オランダは17世紀の最大の法律家達を産み出し、その他にも最高の学者達を有していた。オランダの出版業は、他の全ヨーロッパが出版した以上の数の本を出した。当方世界の言語はオランダ人によってはじめて紹介された。オランダは科学と医学の最先進国だった。オランダは政治家には財政学を教え、商人には銀行業務を教え、哲学者には思弁哲学を教えた」(「繁栄と衰退と」岡崎久彦著)
「経済的繁栄を背景にして、芸術、文化、教育も大いに進んだ。絵画の需要は大きく、当時、オランダに輩出した著名な画家の名は枚挙にいとまがない。学校ではオランダ語、のほかに、男子はラテン語、女子はフランス語を学び、数カ国を操れる人なぞはざらだったし、読み書きのできない人などはほとんどいなかったという。疑いもなく当時のオランダ人は世界で最も教養があり、最も文明的で進歩的な人々であった」(「繁栄と衰退と」)

こうして世界最強の産業と最も教育水準の高い国民とを擁していたオランダが、17世紀の半ばを過ぎると何度か滅亡の淵に立つのはどうしてであろうか。繁栄の極地の中に、後に衰亡の原因があったのだろうか。それもイギリスによってである。オランダとイギリスの関係は、1648年のミュンステル講和条約で80年戦争が終った途端に悪化し、わずか4年後に戦争がはじまっている。

アングロ・サクソンとオランダ人はほとんど同文同種といってよい。アングロ・サクソン人は、5世紀頃、現在のドイツ北岸、南部よりグレートブリテン島に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称で、オランダにいた者たちがイギリスにわたってイギリス人となり、大陸に残ったのがオランダ人といっても過言でない。その同じ種族ともいえるイギリスとオランダが戦争となり、オランダは衰亡していく。その戦争と衰亡理由について述べていくと、これまた膨大な紙数になるのでやめるが、1906年に出版されたエリス・パーカー「オランダの興亡」に次のように指摘がある。

「オランダが衰退した最大の理由として、武事を閑却したことのほかに、国内の党争が中央権力の弱体化を招いた」ことを挙げている。日本にとっても、この指摘は当てはまるだろう。民主党政権に政権交代し、3人の首相が1年ごとに交代し、中央権力が弱体化した時に、中韓からの領地に関する攻勢が始まったことを考えればわかる。政治の安定が大事だということを日本人は再認識しなければならないと思う。

もう一つオランダが、対イギリス戦争(第一次1652-54・第二次1665-67・第三次戦争1672-74)と、対フランス戦争(1672-78)とならざるを得なかった理由をポール・ケネディ「大国の興亡」から挙げておきたい。「英国の経済界の人々の多くが、海運、東方貿易、バルティック貿易、漁業、財政金融一般などにおけるオランダの優位に対して深い嫉妬心を持った、という証拠は歴然たるものがある」いくら昔の話でも、他国の成功に対する嫉妬だけで戦争になるというのは、いかにも不可解な気持ちがするが、実際にオランダはイギリスとフランスから嫉妬され、戦争を仕掛けられたのである。結果は、オランダは昔日の影もなく衰微し、世界の最先進を誇ったその経済は二流の地位に転落し、政治、軍事面でも同様になった。

だがしかし、その後三百年有余経た現在のオランダは、軍事的覇権を持たず、経済力もあり、風車とチューリップの平和な国というイメージと共に、世界の中で強国といえる一面を保有した国家となっている。