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世 界 牡 蠣 剥 き チ ャ ン ピ オ ン 大 会 その二

 アイルランドは金融危機の影響で不況の最中、ところが、2009年9月27日開催の世界牡蠣剥きチャンピオン大会、会場のホテル宴会場は満杯の1500人ぎっしりの大入り、大盛況である。

 会場では、黒ビールのスタウト、ギネスを飲みながら牡蠣を食べ、牡蠣剥き大会時間を待ちつつ、舞台の歌手が歌い続ける中、フロアで踊りだす。日本人もいて、女性は語学勉強でダブリン滞在中の二人組と、ワーキングホリディの一人。若い男もいる。聞いて見るとロンドンからダブリンを経てきた一人旅である。全員、情報源は「地球の歩き方」だという。

 14時になると、司会者が選手の入場と告げる。当初15人参加だったが、14名に変更と告げられ、舞台にテーブルが出され、選手の名前と国名が読み上げられる。
ここで紹介する参加者国名は、司会者が読み上げた順序でない。結果が判明して、優勝者が決定して、14位までの順位が定まった順で書いた。

 優勝はベルギー、二位はアメリカ、三位アイルランド、以下カナダ、ノルウェー、エストニア、スエーデン、フランス、スペイン、イギリス、デンマーク、シンガポール、フィンランド、チェコである。

 この14人が三組に分かれ、一人あて30個の平牡蠣、これは世界で最も多く流通し生産されている日本原種のマガキでなく、通称フランス牡蠣ともブロンともいわれる平牡蠣であるから、アイルランド以外の国では珍しく、当然に日本では全く食べられない牡蠣であるが、それをいかに早く剥くか、その勝負が競われるのである。

 したがって、平牡蠣が普通に多く養殖されている地元アイルランド以外の国は、普段はマガキを剥くだけなので、慣れていないので大変だと思うが、それはそれいずれも腕自慢の牡蠣剥き職人だから挑戦したのだろう。

また、ルールも明確で、ただ早く剥けばよいのでなく、条件が細かく定められている。その内容はいずれ出版する「世界事情(仮題)」後で紹介するとして、司会者が声を出し、会場からも呼応し、カウントが始まる。カウントは9から始まり、1が終わったら牡蠣剥きにスタートする。0まではカウントしない。

最も早かった長身のベルギー人、名前はカイユ氏、翌日の飛行場で偶然出会ったので、名刺交換しいろいろ聞いて見ると、普段はエカイエ、これはフランスの牡蠣剥き職人の通称であるが、パリに在住し、首相官邸や各国のパーティーに呼ばれ牡蠣剥きしているとのこと。以前に取材したことがあるパリ・エカイエ協会会長で、この大会5回連続優勝したゴンチェ氏の弟子だという。欧米では牡蠣剥き職人の地位は高いのである。
 カイユ氏は30個開けるのに2分29秒、一個剥くのに5秒要していない。早い。最も遅いチェコ人で3分38秒、一個当たり7.2秒である。カイユ氏の方が約1.5倍早い。
 さすがだ。空港では立ち話だったので、次回訪仏時に詳しく牡蠣剥きトレーニングや優勝への秘訣を聞いてみようと思っている。

世 界 牡 蠣 剥 き チ ャ ン ピ オ ン 大 会 その一

 今回は世界牡蠣剥きチャンピオン大会の様子をお知らせしたい。開催された場所はEUアイルランドのゴールウェイGALWAYである。
ゴールウェイはアイルランド・コナート州の主要都市で、アイルランドで最もやせた土地といわれ、ピューリタン(清教徒)革命を行ったイギリスの最高指揮官オリバー・クロムウエルのアイルランド侵略時に、土地を追われたアイルランド人が強制的に移住させられたところで、今でもゲール語が日常生活で使われているような地域である。また、この街はゴールウェイ大学が有名で、人口6万人の五分の一が学生であり、多くの国際的フェスティバルが開催されている。

 その一つが世界牡蠣剥き祭りGALWAY INTERNAYIONAL OYSTER FESTIVALで、今年で55回を迎えている。この地で牡蠣剥き祭りが行われるようになったのは、毎年9月が観光客の少ない時期なので、その対策として企画され、1954年から始められたが、この祭の中心イベントは世界牡蠣剥きチャンピォン大会である。この大会に来る人で最も多いのは地元アイルランド人、次にイギリス人、ドイツ人。

 アイルランドは800年前にイギリスが植民地化を始め、120年間の併合もあって、侵され略奪され続けた歴史がある。当時主産業は農業であったが、収穫された農作物はイギリス人不在地主によって徹底的に搾取され、残り物ではとても生きていけず、選択肢は餓死するか、逃げ出すかであって、多くのアイルランジ人は後者を選び、アメリカへの大量移民が始まった。

 その結果、19世紀前半に人口は800万人であったが、減り続け、一時は260万人まで激減した。国家として破たんし、ヨーロッパの最貧国と言われ続けてきた。
しかし、1973年へEU加盟を機に、開放経済政策、優遇税制による外資導入、高付加価値産業への転換、教育投資による人材育成、英語力(ヨーロッパでは英国とアイルランドだけが英語言語)の利点活用など、国が主導して展開し、一定の方向に経済・社会を政策誘導することによって、輸出依存型の経済発展を導き、とうとう2004年には、英誌エコノミストが「低い税率、高い経済成長率、質の高い教育と自然の美しさが、あらゆる面でも比類のない生活の質をアイルランドに与えている」と評するほどになった。

 さらに、同誌で「低い失業率という新しい魅力的な要素に加え、健全な家庭生活と地域社会といった旧(ふる)くからの要素を維持したまま、両者を融合した」とも書かれるまでに至った結果は、アイルランドの歴史上初めて、出国者よりも入国者の方が多くなって、海外からの労働者人口は、総人口の1%から 12%まで上昇した。つまり、所得、保健、気候、政治的安定等の指数比較で世界トップになったのだ。

 この結果、ヨーロッパ最貧国からはいずり上がったサクセスストーリーから、アイルランドは「ケルトの虎」と呼ばれるようになった。勿論、一人当り名目GDPで、英国、日本を抜き去っている。

 だが、今回の金融危機でアイルランドは破綻した。ここ10年ほどイギリス、スペインと並んで欧州バブル三兄弟の一角を占めていたが崩壊し、長いパーティーの後の二日酔い状態となって、2009年GDPは前年比マイナス9%下落見込み、「景気後退」から「不況」へと一気に突入した。住宅価格は一年で9%下落し、不動産セクターは国民所得の10分の1、労働力の13%がここに属しているので、不動産ブームが去って、失業者増とポーランド人の帰国ラッシュである。今では逆に、ポーランドがアイルランド人失業者をワルシャワへ呼び込もうと、就職フェアを開催するくらいである。だから、道路の傍らの住宅のいたるところに「FOR SALL」の看板が出ている。