HOME > 播磨灘物語 > 中世・近世


播 磨 の 国 の 悪 党 ど も

 悪党の代表は、寺田法念(てらだほうねん)と垂水繁昌(たるみしげまさ)であり、悪党が発生したのは鎌倉時代の中頃である。

 「国々悪党蜂起セ令メ…早ク警護ヲ加ウル可キナリ」という有名な「御成敗式目」追加法令が出されたのは正嘉2年(1258)で、この頃は全国的に悪党蜂起が眼にあまり、この悪党によって荘園体制が崩壊の危機に直面したため、本格的な取り締まりに乗り出した。
 この悪党とは権力側が名づけたものであって、荘園領主—幕府体制という年貢集税システムに対して異を唱え、地元にも還元すべきという主張した者であるので、在地の荘園関係者の立場に立てば、旧弊打破という政治改革行動であった。

 悪党の代表的人物である寺田法念の舞台は矢野荘である。矢野荘とは、現在の相生駅から播磨科学公園都市へ向かう三濃山トンネル、その南に伸びる谷間にあって、千草川の支流である矢野川の流域で、土壌は豊かであり、ここに農地が開発されたのは6世紀末から7世紀のころ、渡来人の秦河勝(はたのかわかつ・生没年未詳)一族によるものであった。

 その後、荘園制度によって京都の名門公家、東寺、南禅寺などと荘園領主は代わったが、これら荘園管理者である荘官の一人が寺田法念であった。本名は範家、法名が法念。法念は渡来人の秦氏の子孫といわれ、1310年代から約20年間、荘園領主と対立抗争を続けて、東寺から「国中名誉の悪党」(世間では知らぬものなき悪党)と名指しされたほどだった。

 もう一人の悪党が垂水繁昌で、小野市の国宝浄土寺を中心とした「大部荘」が舞台であった。ここは、加古川と支流の万勝寺川・東条川によってつくられた河岸段丘が広がって、古来から米作が行われていて、本格荘園とされたのは12世末紀である。

 荘園は東大寺領として播磨別所と称され、その中核施設として浄土寺が建立されたが、この荘園で運搬業務を担当した「雑掌(ざっしょう)」と呼ばれる身分の者があり、その中で垂水繁昌は「雑掌中の雑掌」といわれ、数百人の部下勢力を持つほどの強大な勢力となり、永仁2年(1294)ころから東大寺側と衝突していた。

赤 松 円 心 の 登 場

 このような時代に登場したのが、赤松則村(あかまつのりむら・建治3年(1277年)〜正平5年(1350))で、南北朝時代の武将である。法名は円心。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。父は赤松茂則。子に赤松範資、赤松貞範、赤松則祐、赤松氏範、赤松氏康らがいる。

 円心が悪党行動した史料はなく、むしろ権力側に食い込み、三男の赤松則祐を護良親王の側近とさせ、長男赤松範資と二男貞範を摂津の長洲御厨(現尼崎市)に派遣し、中央政治・経済動向を取り入れ分析し、時代の流れを読み解いた。結果として、足利尊氏と呼応し、鎌倉幕府を倒した(建武新政)。ところが後醍醐天皇を取り巻く政権中枢と確執、追放された足利尊氏とともに下野。

 足利尊氏は態勢を立て直し、楠正成軍を破り、念願の足利幕府を開く。円心なくして足利幕府-室町幕府の成立はなかったであろう。その功績で、政務全般を司る「三官領」には細川、斯波、畠山氏、司法と軍事を司る「四職」には山名、京極、一色、そして赤松氏が任命された。

黒 田 孝 高 は 播 磨 国 出 身

 黒田孝高(くろだよしたか・天文15年〜慶長9年、1546〜1604)、通称は官兵衛。カトリックの洗礼名はシメオン、入道してからは如水(じょすい)といい、豊前中津城主、子息は黒田長政で関ヶ原の戦い後、筑前福岡52万石大名となる。

 この黒田孝高は播磨国と大きく関係がある。孝高の祖父は重孝、父は黒田職隆(もとたか)、この頃の播磨の国は、御着城(ごちゃくじょう・姫路市御国野町)の小寺氏、三木城(三木市)の別所氏が勢力を持っていた。
 重孝は最初、赤松一族の龍野城赤松政秀に仕えるが、すぐに見切りをつけ姫路に出て、小寺藤兵衛に仕える。小寺氏から重孝父子は姫路城を居城として与えられ、職隆に孝高が生まれる。

 当時は戦国時代、織田家が全国制覇を目指して、中国の毛利家を攻撃すべく、播磨の国に入ってきた。孝高は織田につくことを主張、秀吉を迎え、自らの居城である姫路城を秀吉に譲ってしまう。翌天正6年の第二次中国攻めの時、御着の小寺氏は突如反乱、毛利側に着く。これによって小寺家は滅亡する。

 小寺家を離れた孝高は、秀吉のかけがえない軍師となり、備中高松城の水攻め作戦を献策、織田信長が本能寺の変に倒れた際の、明智光秀との跡目戦いでは智謀の限りをつくし、秀吉の天下取りの最大協力者となり、秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは、子の長政は徳川家康側につき、筑前福岡大名として黒田家の名を遺した。


お 夏 、 清 十 郎 物 語

 室津の古く狭い道端に「清十郎生家跡」の石碑が立っている。室津の清十郎を有名にしたのは、井原西鶴の『好色五人女』(貞享3年、1686)である。

 室津きっての造り酒屋、和泉屋の御曹司清十郎は、遊女皆川と深い馴染みになったが、父に仲を引き裂かれ、二人は心中するが清十郎は死をのがれる。室津にいられなくなった清十郎は、姫路の米問屋但馬屋九右衛門のもとで手代となる。この九右衛門の妹お夏が清十郎へ想いをつのらせ、店が催した春の野遊びで二人は結ばれる。主人の妹との逢瀬は密通であり、発覚すれば重罰となる。

 二人は大坂へ逃げようと船に乗ったところを捕らえられるが、ちょうどその時、但馬屋で金子700両が紛失、嫌疑が清十郎にかけられ、身におぼえはなかったが、ついに処刑される。25歳であった。後に金子は店の中で見つかったが、もう遅かった。

 清十郎の死を知ったお夏は狂乱。

 「清十郎殺さばお夏も殺せ。生きておもいをさしょりも」と唄われる。清十郎を弔う「清十郎塚」の前で、お夏は自殺を図るが、押しとどめられ仏門に入る。「十六の夏衣、けふより墨染めにして…」とお夏は出家し「中将姫の再来」といわれ、但馬屋もねんごろな仏事供養を執り行い、清十郎を弔ったというストーリーである。

 これは西鶴が、読者の共感を意識して、このような悲劇につくったのであった。この物語を受け、近松門左衛門は「お夏清十郎50年忌歌念仏」を、宝永4年(1707)大坂で人形浄瑠璃の舞台にし、大人気を得た。以後、この物語は様々な変容を遂げながら明治、大正、昭和を経て現在に至っているのである。

宮 本 武 蔵

 宮本武蔵の生誕地についてはさまざまな説がいわれているが、ある歴史学者は「宮本武蔵で確実なことは、武蔵自身が書いた『五輪書』で言っていることだけである」と語っている。

 この見解に基づけば『五輪書』序文に「生国播磨の武士、新免武蔵守藤原の玄信」とあるように、武蔵自身が播磨生まれと言っているわけで疑問の余地がなく、その後美作の宮本村へ養子に行ったことになる。

 13歳で有馬喜兵衛との戦いで勝利をおさめた後、京都での吉岡一門との決闘、奈良で宝蔵院流槍術と、伊賀では鎖鎌の宍戸某と、江戸では棒術の夢想権之助と戦い、ことごとく勝利し、慶長17年の佐々木小次郎との戦いを制し、二刀流の武蔵は剣豪として名を高める。

その後、大坂冬・夏の陣にも加担し、姫路藩本多家の剣道指南となるが、養子伊織が明石藩小笠原忠真に仕え、小倉に転封とともに移住。武蔵はここで島原の乱鎮圧に協力し、前小倉藩主で熊本に移っていた細川忠利の知遇を受け、晩年は熊本城下で過ごした。

忠 臣 蔵

 元禄14年(1701)、江戸城松の廊下において、「この間の遺恨覚えたるか」と言いざま、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、名門の高家・吉良上野介義央に切りつけた。吉良は眉間と背中に傷を負った。

 殿中刃傷に対する幕府の対応は「喧嘩両成敗」でなく、浅野は即刻切腹、吉良はお構いなし。この「片手落ちの処断」に対し、赤穂浪士が決起、筆頭家老大石内蔵助がリーダーとなった。

 大石は浅野家再興を願うが、かなわないとなると、行動目標を「吉良の首」に定めた。殿中刃傷から1年9ヶ月の元禄15年12月14日、吉良邸へ討ち入り、吉良の首をあげる。討ち入り後の処置は幕府が慎重に進め、元禄16年2月、全員切腹となった。

 この討ち入りから46年後の寛延元年(1748)、大坂・竹本座で赤穂事件を題材にした人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が上演され、一大人気となり、続いて翌寛延2年には江戸で歌舞伎となって上演、熱狂的な忠臣蔵ブームが発生し、以後、今日まで忠臣蔵は日本を代表する物語であり、日本人の精神を物語るものとして語り続けられている。