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姫 路 県 ・ 飾 磨 県

 昔、姫路県、飾磨県(しかまけん)が存在した。しかし、今はすべて兵庫県になっている。この経緯を振り返ってみたい。幕末の戊辰戦争では、姫路藩は徳川幕府側についた。時の藩主酒井忠惇と前藩主忠績の「徳川と共にある」方針に基づくものであった。徳川幕府が倒れ、明治の時代となっても姫路藩は残ったが、明治4年(1871)7月の「廃藩置県」によって、全国261の旧藩に代わって、1使3府302県が新設された。1使とは北海道開拓使、3府とは東京府、京都府、大阪府であった。

 播磨では、姫路、明石、龍野、赤穂、林田、山崎、安志、三日月、小野、三草の10藩が新しく県となった。しかし、その年の11月、全国的な統廃合が行われ、県の数は72となり、播磨では明石県以下9県が姫路県に統合された。この時点で播磨の国は姫路県となったのである。だが、明治新政府から横やりが入り、幕府にくみした姫路藩のイメージが残るという理由で、「姫路県」は「飾磨県」と名称変更された。飾磨県の諸業務は旧姫路藩役所で始まったが、不十分な建物設備であったので、大蔵省へ建て替えの要望書が出されること15回、ようやく明治9年に姫路城の南西の地である薬師山にモダンな県庁が建設された。

 ところが、新県庁舎の建物完成に喜び湧き、落成式を終えた翌日の8月21日、岩倉具視名で飾磨県全域と、豊岡県に属した但馬全域と丹波の一部、それと四国の名東県の淡路島全島を、摂津の一部地域(現神戸・阪神間)をエリアにした兵庫県に併合させる旨の通達が出された。こうして新庁舎完成に湧く飾磨県舎は、一夜にしてお役御免「無用の長物」と化した。

 その後、兵庫県からの分離独立を願う思いは年々強く、飾磨県再置の願いが政府に出されたが、独立分離できず今日に至っている。その理由として、新政府にとっては、海外に開かれた神戸港を中心とする発展をバックアップするためには播磨の国の持つ財源が必要であったのではないかといわれている。

当時の地方税、摂津が約8万円、但馬が約4万円、丹波は約3万円、淡路は約3万円、これに対して播磨は約22万円、圧倒的に播磨が経済力において優れていたことがわかり、これが分離独立できなかった理由の定説である。

重 厚 長 大 産 業

 昭和14年(1939)、姫路市広畑に日本製鉄(現新日鉄)が進出した。後の播磨重工業地帯誕生の始まりであった。一旦、敗戦により頓挫したが、戦後の経済成長路線により、製鉄は基幹産業として日本経済を牽引した。

 昭和26年(1951)には相生市に播磨造船所(石川島播磨重工を経て、現IHI)が進出したように、戦後の播磨灘臨海部には、次々と重工業群が集積していく。工場数は1500を超え一大活況を呈した。

 だが、昭和40年(1965)の山陽特殊鋼による会社更生法を皮切りに、公害問題も発生し、次第に陰りが出始め、そこに造船、鉄鋼不況が追い討ちをかけ、バブル崩壊もあって重厚長大産業によって支えられた播磨臨海工業地帯は停滞状況に陥った。その後、様々な対策を経て、新企業の進出と従来企業の復活などがあるものの、播磨臨海工業地帯は、なお確かな展望を開けず、現代に引きずっている状況である。

新 た な る 展 望 ・ 牡 蠣 養 殖 業 の 誕 生

 すでに見たように、播磨の国は西摂から段丘地形の台地が連なっているが、たつの市御津町室津海岸から西方の相生湾、坂越湾は、大地が海に沈んでできた美しい沈降海岸が続いている。この美しい播磨灘で新しい漁業の展望を拓こうと、今から35年以上前の昭和49年(1974)に坂越で牡蠣養殖が始まった。

続いて53年(1978)に相生で、室津は平成10年(1998)に養殖を始めた。何故に、現代になってから牡蠣養殖を始めたのであろうか。その理由について相生漁協の組合長が次の3つであると語っている。(身近な地域 相生教育委員会 平成19年)

 1、相生湾が入り海で海水の流れがゆるやかだ
 2、相生湾は栄養素が高い海域
 3、海の天候に左右されずに牡蠣が採れるので生活が安定する

 この通りであろうが、かつては水産業が播磨灘一帯での主要産業であったものが、戦後の高度成長とともに漁獲高が減少し、水産業では十分でなくなって来た時に相生で牡蠣養殖を始めたのであり、そこにはこの海が持つ歴史としての必然性を感じる。必然性のヒントは、組合長の述べた理由のふたつ目にある。相生湾は栄養素が高い海域であるということなのだが、確かに相生の牡蠣の身の豊かさを見るとその通りである。その海の豊かさはどのような背景から生じているのだろうか。

 よく知られているように、海の水が魚介類に適するには、成育に必要な優良成分を保持する水が海に流れ込むことが必須条件である。これは、流れ込む河川に栄養分が含まれていなければならないことを意味する。そのためには河川沿岸の山や土地が肥沃していることが必要条件となる。つまり、坂越・相生・室津の海、これらが牡蠣養殖に適しているということは、上流から流れてくる川の水に栄養素が備わっていることになる。

 そこで地図を見ると、この三養殖地を包囲するように、西に御津町の揖保川、東に赤穂市の千種川が流れ込んでいる。勿論、播磨灘には両川以外に、播磨五川と称される加古川、市川、夢前川があるが、これらと揖保川、千種川はどのような違いがあるのか。それを解きほぐすのは歴史をさかのぼることであり、そのためにはもう一度『播磨国風土記』の記述に戻らなければならない。ヒントは歴史の中にある。すなわち、この三湾で期せずして牡蠣養殖を始めたことと、播磨風土記に記述されたこととの因果関係を再確認することが大事であろう。

 『播磨国風土記』は、既述したように和銅6年(713)、朝廷が諸国に報告を求めたものであるが、その中に「土地の肥沃の状態」がある。この土地の肥沃状態が記述されているのは『播磨国風土記』のみとなっているが、気候学者の吉野正敏氏が、その肥沃の実態を土地生産力に関係づけて、次のように指摘していると『兵庫の地理』(田中眞吾著)が述べている。

 土地生産力とは、土壌、水温、地温、気温、風、湿度など農作物の自然環境の総合であり、作柄の良否から『播磨国風土記』の記述は判定したと推測し、風土記掲載の「土地」を「上の上」から「下の下」までの9階級として、それを1から9の数字に置き換えて、土地の階級分布図を作成した。(下図参照)

 風土記の土壌階級の分布。土の階級「上の上」「下の下」を1〜9に置換して表現。細かい図で分かりにくいが、よく見ていくと最高ランクの1は播磨の国には存在しない。最高は2であり、その2が示されているのは、西播磨の揖保川河口近くと、千種川上流の佐用町付近に固まっている。具体的に地名で確認すると、浦上地区(現・御津町全体と揖保川町の河内・浦部あたり)、石海地区(せっかい・現・太子町揖保川水系林田川沿い)、讃容、速湍、雲濃(作用町)の5カ所である。いずれも3つの牡蠣養殖地に流れ込む揖保川と千種川に沿っている。

 つまり、播磨灘において開始された牡蠣養殖3海域に流れ込む河川の上流・沿岸には、栄養素に富む土地が存在していることが、今から1300年も前の『播磨国風土記』に記述されていたのである。坂越、相生、室津の三地区で牡蠣養殖を始めたことは、まさに古代人からの遺言であろう。その牡蠣産地の相生と坂越を、平成21年(2009)のお盆休みに訪ねてみた。まず、相生市の道の駅・白龍城(ペーロン)に入ってみると、入口すぐに牡蠣味噌ラーメンと大書してある。いかにもうまそうな写真に惹かれ、真夏の暑さを省みず注文した。

 出てきた牡蠣味噌ラーメンは、麺はいまひとつだが、身太りの牡蠣をかみしめると深い味わいが残って美味い。さすがに相生は牡蠣に力を入れているなぁと思う。翌日の昼は、陽射しが強い中、坂越の海の駅・しおさい市場に向かう。目的は牡蠣があるかどうかである。多分、夏だから当然メニューにないだろうと思いつつ、ウェイトレスに聞くと、何と生牡蠣があるという。驚き、メニューを見ると次のように書いてある。

 「地元坂越のかき業者が数年前より取り組み、苦難の数々を乗り越え、ようやく成功しました。低温海域にて一粒一粒丁寧に育てられた逸品は『生かき』で召し上がって頂くことが最高の至福です。加熱しても身が縮まらず、旨みが増します」とあり、ネーミングは「なつみ」とある。生牡蠣を食べるときは白ワインと決めている。だが、今日は車の運転があるのでワインは飲めない。そこで、蒸し牡蠣を注文する。これも「なつみがき」である。

 出てきた蒸し牡蠣、レモンが添えられているが、レモンなしで食べてみる。確かに身は縮んでいない。深い味わいがある。宣伝にウソはないと思う。坂越でも牡蠣に力を入れているなぁと思う。ただし、1個450円は高い。