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播 磨 灘 の 地 形

 岡山空港に飛行機が着陸する際に見られる地上景観は丘が多く、その先に瀬戸内海の島々が浮かんでいる。だが、その島々も青い海がなければ丘のように見える。ここはもともと山並みが連なる大規模な山岳地であったところに、海水が浸食し、残った山の頂が丘として残ったのではないかと思わせる景観なのだ。

 実は、この推測は正しい。今から1万数1000年前、縄文時代に入る前の旧石器時代の末期、このときはまだ瀬戸内海は姿を現していなかった。海岸線は、今より100mも低いところにあり、大阪湾も、紀伊水道も、播磨灘もなかった。現在の近畿、中国、四国地域は、隠岐の島を含んで一体とした陸地を構成していたのである。淡路島、小豆島も、家島も、単なる山並みであった。

 時代が下がって、縄文時代に入った1万3000年前あたり、温暖化が進み、地球規模での海面上昇、いわゆる「縄文海進」が約6000年前ごろまで続き、このため海岸線は100mも上昇し、大平原は一面海と化した。播磨灘はこうして誕生した。

卑 弥 呼 と 関 係 す る

 弥生時代の海岸線には、各地に稲作の痕跡が遺されている。弥生時代になって定住人口が増えたことの証明であるが、地域が形成されると、やがて対立抗争が始まり、『魏志倭人伝』にある「倭国大乱」の時代となった。2世紀後半から3世紀にかけてのことである。この大乱に登場したのが「卑弥呼」である。

「倭国乱れ…すなわち一女子を立てて王となし、名づけて卑弥呼という。鬼道を事とし、よく衆を惑わす…」と『魏志倭人伝』が伝える内容は、日本に「クニ」が生まれたことを示している。この卑弥呼共立に播磨の勢力がかかわっていたこと、それを証明する存在が、たつの市御津町(みつまち)の梅の名所「綾部山梅林」南東面の古墳から現れた。

 この古墳は「綾部山39号墳」と名づけられたように、綾部山の中で39番目、平成14年(2002)1月に発見された遺跡である。もともと、綾部山古墳群は5世紀(中期)〜7世紀(終末期)にかけての古墳群といわれており、39号もそのように考えて本発掘調査に入ったところ、とんでもない間違いで、もっと以前の3世紀代のものと判明した。

 立地は、瀬戸内海を眺望する海岸沿い小高い尾根上(標高27m)で、ここから大阪・淡路島・徳島県・香川県・岡山県の牛窓(うしまど)が見通せ、瀬戸内の海上交通を強く意識してこの場所に造られたことが推測される。また、墳墓の想像図から推定できるように「竪穴式石榔(たてあなしきせっかく)」を石で囲む遺構を「石囲い」または「石塁壁(せきるいへき)」というが、これは四国の阿讃地方(阿波・讃岐)で発達したものであることから、阿波・讃岐と播磨は関係があったと考えられている(2003年3月22日、御津町教育委員会説明資料)。

 さらに大事なことは、「綾部山39号墳」が近年、邪馬台国の首都ともいわれはじめた奈良・纒向(まきむく)にある「ホケノ山古墳」に非常によく似ていて、築造年代も卑弥呼の死(248年頃)の少し前、3世紀前半と推定できることである。また、「ホケノ山古墳」の被葬者が、卑弥呼の側近と目される高官でないかといわれており、これが「綾部山39号墳」と多くの類似性を持つということは、卑弥呼側近の出身地が、阿波、讃岐、播磨のいずれかである可能性が高いのだ。

 いずれにしても、日本古代史ロマンに燦然と輝く卑弥呼と播磨灘の御津町とが、何らかの関わり合いがあると想像されることは素晴らしい。

播 磨 国 の 謂 れ

 播磨の海辺は神功皇后(じんぐうこうごう)とゆかりが深い。神功皇后は日本神話の中で、女性として傑出した人気を誇っている。201年から269年まで摂政として政事を執りおこなった神功皇后は、夫である第14代仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵、新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという三韓征伐の神話で有名である。

 この神功皇后が、福泊(姫路市東部)の入江で風待ちのため避難したが、入港するとたちまち雲が切れて青い空がのぞいた。「おお、晴れ間なり」と神功皇后が叫んだ。これが「播磨」国の名になったと『播磨鏡』が伝えている。また、播磨は、もとは「針間」と書かれていた。『古事記』に「於針間氷河之前」「針間為道口」とある。意味は、天皇の息子が針間氷河(加古川)の岬で神を祀り、針間を山陽道の入り口として吉備(岡山県)を平定したというのである。

 なお、『皇年代略記』の垂仁天皇(すじんてんのう)の条に「此時造播磨」とあり、他の文脈にも出てくるから、すでに垂仁天皇の時代には、この地が播磨と呼ばれていたと思われる。

『 播 磨 国 風 土 記 』 が 現 存 す る

都が奈良の平城京に還されて3年目の和銅6年(713)、朝廷は諸国、当時の62の国と3つの島に通達を出し、それぞれの国に次の5項目について報告を求めた。

 1、郡郷の地名に好字をつけること。
 2、郡内の産物の品目を録すること。
 3、土地の肥沃の状態。
 4、山川原野の名称の由来。
 5、古老旧聞の伝承。

 その目的は、朝廷が全国支配の強化を狙って、諸国の実情を知ろうと、地勢報告書を求めたもので、ここに各国の風土記が誕生したのである。そこで国の数だけ風土記があったはずだが、現存するのは播磨、出雲、常陸、豊後、肥前の5カ国だけである。

 また、遺された『播磨国風土記』であるが、最初、朝廷に差し出されたものは失われ、平安末期に書き写されたものが、京都の公家三条西家にあることが江戸時代末期にわかり、現在は、国宝として天理大学図書館に保管されている。

 ただし、冒頭部分の明石の郡がすり切れて失われ、賀古の郡もはじめのところがなく、赤穂の郡もないが、日本のほとんどの国が風土記を持ち得ないことを考えると、播磨の国は風土記によって、当時の状況を知ることができるのだから幸せである。

播 磨 を 通 る 山 陽 道 は 重 要

朝廷が古代の道を整備し始めたのは、大化の改新から大宝律令制定に至る7〜8世紀にかけてである。いわゆる七道、山陽、山陰、北陸、東海、東山、南海、西海で、起点を都に開通させた。

 この道の要所毎に「駅」が設置された。「養老令」の注釈書『令義解』には「諸道の……30里ごとに駅を置け」とある。今の距離に換算すると、約16kmごとに駅が置かれたことになる。全国に推定400か所。播磨には山陽道9駅が設置された。明石、邑美、賀古、佐突、草上、大市、布勢、高田、野磨である。

 播磨の駅間は全国平均より短く、約10kmの間隔となっていることが、播磨国の特色である。政治経済上重要な地区であったから、数多くの駅が設置されたのだろう。

鉄 は 播 磨 国 か ら 生 ま れ た

 播磨国の古代にはもう一つの重要な要素が存在した。それは「鉄」である。
『播磨国風土記』の宍禾(しさわ・穴粟)郡」の記述に「敷草の村、草を敷きて神の座と為しき。故、敷草といふ。この村に山あり…檜、杉、栗、黄蓮、黒葛等生ふ。鐡を生ず」とあり、敷草とは千種であるから、風土記編纂以前から千種の鉄は広く知られていたのである。

 今の千種町岩野辺は、国を占めた伊和大神がここでご飯を炊いたので、山の形もカマドに似ているという。また、この岩野辺は金山の神である金屋子神が日本ではじめて降り立った地で、ここから白鷺に化して産鉄の盛んな土地へ飛んで、たたら作業を見守ったと古い記録にある。

播 磨 灘 の 地 形

 岡山空港に飛行機が着陸する際に見られる地上景観は丘が多く、その先に瀬戸内海の島々が浮かんでいる。だが、その島々も青い海がなければ丘のように見える。ここはもともと山並みが連なる大規模な山岳地であったところに、海水が浸食し、残った山の頂が丘として残ったのではないかと思わせる景観なのだ。

 実は、この推測は正しい。今から1万数1000年前、縄文時代に入る前の旧石器時代の末期、このときはまだ瀬戸内海は姿を現していなかった。海岸線は、今より100mも低いところにあり、大阪湾も、紀伊水道も、播磨灘もなかった。現在の近畿、中国、四国地域は、隠岐の島を含んで一体とした陸地を構成していたのである。淡路島、小豆島も、家島も、単なる山並みであった。

 時代が下がって、縄文時代に入った1万3000年前あたり、温暖化が進み、地球規模での海面上昇、いわゆる「縄文海進」が約6000年前ごろまで続き、このため海岸線は100mも上昇し、大平原は一面海と化した。播磨灘はこうして誕生した。

卑 弥 呼 と 関 係 す る

 弥生時代の海岸線には、各地に稲作の痕跡が遺されている。弥生時代になって定住人口が増えたことの証明であるが、地域が形成されると、やがて対立抗争が始まり、『魏志倭人伝』にある「倭国大乱」の時代となった。2世紀後半から3世紀にかけてのことである。この大乱に登場したのが「卑弥呼」である。

「倭国乱れ…すなわち一女子を立てて王となし、名づけて卑弥呼という。鬼道を事とし、よく衆を惑わす…」と『魏志倭人伝』が伝える内容は、日本に「クニ」が生まれたことを示している。この卑弥呼共立に播磨の勢力がかかわっていたこと、それを証明する存在が、たつの市御津町(みつまち)の梅の名所「綾部山梅林」南東面の古墳から現れた。

 この古墳は「綾部山39号墳」と名づけられたように、綾部山の中で39番目、平成14年(2002)1月に発見された遺跡である。もともと、綾部山古墳群は5世紀(中期)〜7世紀(終末期)にかけての古墳群といわれており、39号もそのように考えて本発掘調査に入ったところ、とんでもない間違いで、もっと以前の3世紀代のものと判明した。

 立地は、瀬戸内海を眺望する海岸沿い小高い尾根上(標高27m)で、ここから大阪・淡路島・徳島県・香川県・岡山県の牛窓(うしまど)が見通せ、瀬戸内の海上交通を強く意識してこの場所に造られたことが推測される。また、墳墓の想像図から推定できるように「竪穴式石榔(たてあなしきせっかく)」を石で囲む遺構を「石囲い」または「石塁壁(せきるいへき)」というが、これは四国の阿讃地方(阿波・讃岐)で発達したものであることから、阿波・讃岐と播磨は関係があったと考えられている(2003年3月22日、御津町教育委員会説明資料)。

 さらに大事なことは、「綾部山39号墳」が近年、邪馬台国の首都ともいわれはじめた奈良・纒向(まきむく)にある「ホケノ山古墳」に非常によく似ていて、築造年代も卑弥呼の死(248年頃)の少し前、3世紀前半と推定できることである。また、「ホケノ山古墳」の被葬者が、卑弥呼の側近と目される高官でないかといわれており、これが「綾部山39号墳」と多くの類似性を持つということは、卑弥呼側近の出身地が、阿波、讃岐、播磨のいずれかである可能性が高いのだ。

 いずれにしても、日本古代史ロマンに燦然と輝く卑弥呼と播磨灘の御津町とが、何らかの関わり合いがあると想像されることは素晴らしい。

播 磨 国 の 謂 れ

 播磨の海辺は神功皇后(じんぐうこうごう)とゆかりが深い。神功皇后は日本神話の中で、女性として傑出した人気を誇っている。201年から269年まで摂政として政事を執りおこなった神功皇后は、夫である第14代仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵、新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという三韓征伐の神話で有名である。

 この神功皇后が、福泊(姫路市東部)の入江で風待ちのため避難したが、入港するとたちまち雲が切れて青い空がのぞいた。「おお、晴れ間なり」と神功皇后が叫んだ。これが「播磨」国の名になったと『播磨鏡』が伝えている。また、播磨は、もとは「針間」と書かれていた。『古事記』に「於針間氷河之前」「針間為道口」とある。意味は、天皇の息子が針間氷河(加古川)の岬で神を祀り、針間を山陽道の入り口として吉備(岡山県)を平定したというのである。

 なお、『皇年代略記』の垂仁天皇(すじんてんのう)の条に「此時造播磨」とあり、他の文脈にも出てくるから、すでに垂仁天皇の時代には、この地が播磨と呼ばれていたと思われる。

『 播 磨 国 風 土 記 』 が 現 存 す る

都が奈良の平城京に還されて3年目の和銅6年(713)、朝廷は諸国、当時の62の国と3つの島に通達を出し、それぞれの国に次の5項目について報告を求めた。

 1、郡郷の地名に好字をつけること。
 2、郡内の産物の品目を録すること。
 3、土地の肥沃の状態。
 4、山川原野の名称の由来。
 5、古老旧聞の伝承。

 その目的は、朝廷が全国支配の強化を狙って、諸国の実情を知ろうと、地勢報告書を求めたもので、ここに各国の風土記が誕生したのである。そこで国の数だけ風土記があったはずだが、現存するのは播磨、出雲、常陸、豊後、肥前の5カ国だけである。

 また、遺された『播磨国風土記』であるが、最初、朝廷に差し出されたものは失われ、平安末期に書き写されたものが、京都の公家三条西家にあることが江戸時代末期にわかり、現在は、国宝として天理大学図書館に保管されている。

 ただし、冒頭部分の明石の郡がすり切れて失われ、賀古の郡もはじめのところがなく、赤穂の郡もないが、日本のほとんどの国が風土記を持ち得ないことを考えると、播磨の国は風土記によって、当時の状況を知ることができるのだから幸せである。

播 磨 を 通 る 山 陽 道 は 重 要

朝廷が古代の道を整備し始めたのは、大化の改新から大宝律令制定に至る7〜8世紀にかけてである。いわゆる七道、山陽、山陰、北陸、東海、東山、南海、西海で、起点を都に開通させた。

 この道の要所毎に「駅」が設置された。「養老令」の注釈書『令義解』には「諸道の……30里ごとに駅を置け」とある。今の距離に換算すると、約16kmごとに駅が置かれたことになる。全国に推定400か所。播磨には山陽道9駅が設置された。明石、邑美、賀古、佐突、草上、大市、布勢、高田、野磨である。

 播磨の駅間は全国平均より短く、約10kmの間隔となっていることが、播磨国の特色である。政治経済上重要な地区であったから、数多くの駅が設置されたのだろう。

鉄 は 播 磨 国 か ら 生 ま れ た

 播磨国の古代にはもう一つの重要な要素が存在した。それは「鉄」である。
『播磨国風土記』の宍禾(しさわ・穴粟)郡」の記述に「敷草の村、草を敷きて神の座と為しき。故、敷草といふ。この村に山あり…檜、杉、栗、黄蓮、黒葛等生ふ。鐡を生ず」とあり、敷草とは千種であるから、風土記編纂以前から千種の鉄は広く知られていたのである。

 今の千種町岩野辺は、国を占めた伊和大神がここでご飯を炊いたので、山の形もカマドに似ているという。また、この岩野辺は金山の神である金屋子神が日本ではじめて降り立った地で、ここから白鷺に化して産鉄の盛んな土地へ飛んで、たたら作業を見守ったと古い記録にある。