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カキ養殖文化史(1)―有明海・不知火海におけるカキ養殖

小澤智生

今回のブログでは、「カキ養殖文化史(1)」と題し、日本では九州の有明海と不知火海にのみ生息するスミノエガキとシカメガキの養殖に関連した内容を2回に分けて書きます。

第3回には天草下島羊角湾の干潟での天然マガキの採集について紹介いたします。
私ごとになりますが、私は、この十年来、大英自然史博物館の軟体動物部門長のデービッド リード博士と世界の干潟・マングローブ地域に分布するうみにな類フトヘナタリ科巻貝のDNA分析による分類学的改定の研究を行ってきました。この4月に一連の最後の論文を動物分類の国際誌に提出しほっと一息をついているところです。

この研究との関わりで、現在、ある自然保護財団の研究助成支援のもと、日本の干潟の絶滅危惧うみにな類の保全のための集団遺伝学的調査と保全上重要な集団の生息地保全に向けての現地調査を同志の仲間と行っています。

日本ベントス学会が編集し、東海大学出版会より2012年に発行された「干潟の絶滅危惧動物図鑑―海岸ベントスのレッドデータブック」によれば日本のうみにな類のフトヘナタリ科(=キバウミニナ科)全7種とウミニナ科4種中2種が絶滅危惧種または準絶滅危惧種とされています。

縄文人が干潟で大量の貝類を採集し各地に大規模な貝塚を残して以来、日本人は春の伝統行事である潮干狩りで代表されるように、干潟からの恵みを享受し生活してきました。1960年代から始まった高度経済成長期以降、大規模な埋め立てにより広大な干潟が消失するとともに、ダム等の過度な水資源開発による河川水の流入量の減少、農業や生活排水がもたらしたリン・窒素などの栄養塩付加の増大などの諸要因のため、河口域や内湾の海水循環の遅滞と水質悪化が進行し、生息場の消失と相まって干潟の生物は急速に衰退し、現在に至っています。

上記の図鑑では、カキ類に関しては、広く日本に分布していたイタボガキ(Ostrea denselamellosa)が絶滅危惧IB類、このブログで取り上げられるスミノエガキ(Crassostrea ariakensis)が絶滅危惧II類に、またシカメガキ(Crassostrea sikamea)が準絶滅種に選定されています。 その理由は、これらの種の個体数、個体群の減少、生息環境の悪化、分布域の限定が挙げられています。

本年(2015年)の干潮で最大干潮となった3月19日から3月23日の春の大潮期間を選び、うみにな類の調査とDNA分析試料の採集のため、北部九州・福岡県糸島市加布里の泉川河口干潟、佐賀県の有明海北部に位置する小城市芦刈町六角川河口、鹿島市塩田川河口干潟、熊本県天草市羊角湾干潟、そして不知火海に流入する熊本県八代郡氷川町の氷川河口干潟の調査を行いました。

今回の調査旅行では、干潮時には干潟におけるウミニナ類の生態分布、個体群の大きさ、DNA分析試料の採集などの調査を鋭意行いましたが、高潮時で調査が出来ない時間帯を使って、有明海・不知火海のカキ類に関する現況をカキ漁従事者からの聞き取り調査を行うとともに、かつて訪れた佐賀県有明水産振興センターの水産展示館を再訪し展示されている昔の有明海でのカキ養殖に関する写真を再調査し、当時の牡蠣養殖を記述しました。また国の特別遺跡・吉野ヶ里遺跡を再訪し、吉野ヶ里弥生人の食べていた食物の遺物の展示ケース内に展示してあるスミノエガキの写真撮影をしてきました。

本ブログの有明海での牡蠣養殖の歴史と方法についての内容は、主として、川副町誌編纂委員会編集「川副町誌」二章 漁民と漁撈-佐賀市、(三)養殖漁業(1)牡蠣養殖、602-608頁、佐賀郡川副町中央公民館内川副町誌編纂事務局昭和54年2月28日発行、佐賀印刷社;佐賀県有明水産振興センターの水産資料館に展示してある昭和28年に撮影された牡蠣養殖に関する写真パネルとその説明文、また同センターの野口敏春前所長が平成20年に福岡でNPOが主催した有明海講演会「カキ礁復元による有明海再生」で行った講演のレジュメならびに筆者のカキ漁民らからの聞き取り調査に基づいております。

なお、佐賀市立図書館図書係からは使用文献についての図書情報を提供していただきました。また、佐賀県有明水産振興センター・荒牧 裕副所長からは同センター水産資料館に展示してある昭和28年に撮影された牡蠣養殖に関する写真パネルの写真撮影と本ブログのために写真の一部を使用することへのご許可をいただくとともに、有明海の牡蠣養殖についての貴重な情報を提供していただきました。ここに記して、上記機関ならびに関係各位に厚く御礼申しあげます。


I.「カキ養殖文化史-スミノエガキ」

1 スミノエガキとは
スミノエガキ(Crassostrea ariakensis (Wakiya,1929) は種名が示すように有明海の大型のマガキ属の1種に命名されたものであり、和名はこの種が盛んに養殖され陸揚げされた佐賀県小城市芦刈町住之江(すみのえ)(図1)の地名を冠し名付けられた。

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図1.佐賀県小城市芦刈町住之江漁港の景観

現在、日本各地で養殖されているマガキ(Crassostrea gigas (Thunberg,1793) に良く似ていますが、殻の表面に放射状の肋を生じず同心円状の成長輪が発達していることなどで区別がつきます。この種には、生息環境の違いを反映したいくつかの生態型が知られています。


図2.スミノエガキ. 左:不知火海 小川町産 殻高25 cm


中:模式地・芦刈町住之江産. 殻高21 cm(左個体)


右:中国広東省珠海産. 殻高11.5cm

深い泥質干潟で他の個体に幼貝が定着後、泥底に直立した姿勢を維持し続けて成長した〝ナガガキ型“個体では泥の堆積に埋没しないよう殻を上部に伸長し続けた結果、殻長が25cmから30cm近くに達する個体が出現します(図2, 左)。

干潟の泥底に横たわって成長した個体(リクライナーと呼ばれる)では泥に殻が沈み込まないよう殻幅を増大し船底のように左殻の内部の湾入を深くした生態型を取ります(図4.吉野ヶ里遺跡産の個体はほとんどがこの型でした)。一方、岩礫に左殻の一部を付着し自由空間で成長した個体では、同心円状の成長輪を持ち、殻の厚い円形に近い殻形を生じます(図2, 右. 中国広東省の個体など)。

私は、ミトコンドリアDNAの塩基配列を手掛かりに本種の分布をたどりましたが、日本の有明海および不知火海、韓半島西岸の黄海,渤海湾、揚子江河口域、福建省厦門、珠広東省珠江デルタ地帯の珠海地域を経て海南島に到ることを確認しています。

2.スミノエガキの養殖の歴史

国の特別史跡に指定された佐賀県神埼市にある弥生時代の吉野ヶ里遺跡の発掘調査でスミノエガキの保存状態のよい大きな殻がアカニシ、テングニシ、ハイガイ、シジミなどの貝殻、種々の魚骨、イノシシやシカの調理で破断された獣骨、桃の種子など植物遺体とともにゴミ捨て場と考えられる住居周辺の凹地から発見されました。貝類はすべて現在の有明海で普通に得られる貝類です。注目すべきことは、大型のスミノエガキの殻が殆ど壊されていないことです(図4)。


図3.吉野ヶ里遺跡の復元された北内郭の遠景


図4. 遺跡から出土したスミノエガキ

このことから吉野ヶ里の弥生人は土器でカキを殻ごと煮た後、中身を取り出して食していたと考えられます。吉野ヶ里歴史公園センターの2階にある大食堂の人気メニューは有明海産の大きなアサリがたっぷり入ったアサリ汁定食ですが、弥生人にあやかり、牡蠣のシーズンにスミノエガキ汁定食を出したら話題になること請け合いでしょう。

佐賀県人なら良く知っているサクセスストーリーですが、菓子業界の大手である江崎グリコ株式会社の創業者江崎利一氏は吉野ヶ里遺跡の近く佐賀県神埼郡蓮池村(現佐賀市内)の生まれで、父親の死を契機に若くして家業の薬業を引き継ぎ一家の暮らしを支えるため奮闘しておりました。1919年の春、有明海沿いの堤防でカキ漁師がカキの煮汁を捨てているのを見て、カキにはエネルギー代謝に大切なグリコーゲンが含まれていることを知っていた利一氏(当時19歳)は、牡蠣の煮汁を煮つめた牡蠣エキスから得たグリコーゲンを飴に混ぜ、試行錯誤した結果、子供たちの健康増進の食品・グリコキャラメルを商品化し販売して、1代で会社躍進の礎を築きました。煮汁を捨てていたのを目撃したのは、おそらく芦刈町住之江の堤防であったと思われます。

明治42年(1909年)佐賀県藤津郡鹿島村(現鹿島市)の村田楽太郎氏は、自著「佐賀県藤津郡牡蠣養殖事蹟」の冒頭に有明海の牡蠣養殖(主にスミノエガキでマガキと記されているなかにはシカメガキガ含まれると考えられる)は佐賀県藤津郡(現在の太良町から鹿島市に及ぶ)にて万延年間(1860-1861)に始められたと書かれています。

その後、幾多の試行錯誤を重ね、篊建(ひびたて)式、小石の並列式、瓦による採苗を研究し、明治21年には一応養殖法の確立と成功を見るに至り、この技法が杵島郡(塩田川と六角川にはさまれた地域)、佐賀郡(現在の小城市と佐賀市が含まれる)とその近隣に普及したと述べています。住之江漁港を含む佐賀郡では藤津郡の牡蠣養殖技術の発展とほぼ時を同じくして仁井林三郎氏等によって牡蠣養殖が進展されました。

大正12年(1923年)垂下養殖法が事業化され、牡蠣養殖の中心地である広島県や宮城県などでは、養殖事業が長足な進歩を遂げ生産量が拡大していきました。しかし、潮の干満差が5.5mから最大 6mにも達する有明海では垂下式の導入がむずかしく、以下のような地蒔きを中心とした有明海独自の養殖法が最近まで展開されてきました。

(1) 採苗と生産区画への稚貝の地蒔き
主に竹を使った篊建(ひびたて)採苗法が採用され、牡蠣殻による採苗法(穴をあけた牡蠣殻に針金を通し束ねた殻を竹の棚に水平に吊るしたもの)(図5)、


図5.牡蠣殻による採苗の準備


図6.深い泥底での葦篊建による採苗準備

泥が深く竹が使えない澪筋の斜面で行われた葦の束を使った葦篊建採苗法なども併用されました(図6)。
竹を使った篊建採苗では、まず、直径約3寸(9cm)の竹棒を4尺(1.2m)から6尺(1.8m)程に切り揃え、潟面に突き刺す一方の先端を鉈(なた)で斜めに切り落とした竹棒が準備されました(図7)。


図7. 篊建採苗に使う竹の切り出し作業


図8.前年使用された竹棒も使われた

澪筋での採苗では澪筋に沿って密に竹棒を垂直に突き刺して採苗が行われました(図9)。

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図9.澪筋での竹棒による篊建採苗

潟面での採苗では、大正初期に佐賀市川副町犬井道のカキ養殖家川崎巳太郎氏が考案した円錐式篊建法がカキの採苗に革新をもたらしました。この方法は、直径1尺5寸(約45cm)程の円周に沿って竹を斜めに突き刺して円錐状の形の篊建を作り出す(これを1山または1チョッポイと呼んでいた)(図10,11)。


図10.干潟での円錐式篊建の設営


図11.円錐式篊建に付着したフジツボの殻の上に多くのカキの稚貝が付着する

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図12.大規模な佐賀県有明海第一牡蠣種苗増殖場風景「川副町誌」より引用

牡蠣養殖の最盛期であった大正初期から昭和20年代には干潟上には 縦横に船の通路スペースを有した広大な円錐形篊建採苗場が造られていました。(図12)。竹を使った篊建採苗では設置後にまずフジツボが付着し、その殻上にカキの稚貝が多く着くことが経験で分かっていたので、この方法で極めて多くの稚貝を採集することが出来ました。

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図13.竹篊と牡蠣殻上に着生した多くのカキの種苗

この方法は佐賀県のみならず、長崎県、福岡県を含む有明海全域、また熊本県の不知火海へと伝播しました。ちなみに、採苗のための篊建はカキの収穫期が終わる春には設営を済ませ、カキの幼生付着数がピークを迎えた7月後半から8月にかけて、稚貝が付着した竹の棒を抜き取る道具を使って地中から抜き取り、採苗器に付着した稚貝を集め、生産区画の干潟の上に地蒔きを行いました。

(2) 収穫法
有明海ではカキの成長が速く採苗後地蒔きされたスミノエガキは、カキの採集シーズンが始まる11月には殻高が7-8cmに成長しましたので(図14),

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図14.干潟で成長し林立するスミノエガキ

11月には1年牡蠣の収穫が開始されました。採集は大潮の干潮に向かう時間に漁船で養殖場に向かい干潮時、干潟の上に漁船を止め、干出した干潟に林立するカキを鋤簾で掻き集め大きなかごに集め、牡蠣で満杯になった籠を何度も船上に運び上げ1日分の収穫としました。潮の満ち込みを待ち浮上した船を走らせ港に戻り採集した牡蠣を陸揚げしました。

多くの採集があり、貝剥き処理が追いつかない時は、港の船着き場の水中に一時的にストックして置きました。このような大潮期間の干潮時における収穫を翌年の3月頃まで行いました。陸揚げされたカキは、港の近くのカキ剥き場でカキ漁を営む家庭の主婦らによってむき身とされました(図15)。


図15.収穫されたカキのカキ剥き


図16.有明海で使用されていたカキ剥き道具(牡蠣剥刀)
左:シカメガキ用;中:スミノエガキ用;右:マガキ用

昭和28年当時、有明海の牡蠣養殖では、スミノエガキ、シカメガキ、マガキが商品化されていました。 それぞれのカキには、それぞれの種に適したカキ剥き道具(牡蠣剥刀)が使われていました。有明海で最大になるスミノエガキの場合には、先端を尖らせた鉄製の殻をこじ開ける道具(図16;中の右)でまず殻を開けたのち、木の柄に鋼鉄製の刃を付けた牡蠣剥刀(図16.中の左)で貝殻から貝柱を含めた軟体部を剥ぎとりカキの身を取り出していました。

(3) カキの販路
明治時代は鮮魚として多くは地産地消とされていましたが、大正時代に入って生産が拡大するに従い、佐賀県内はもちろん、福岡県筑後川沿いの大川市、三瀬郡城島町(現久留米市)、久留米市、浮羽郡田主丸町(現久留米市)、朝倉郡杷木町(現朝倉市)まで殻付きのまま船で運び、現地で剥いての販売が展開された他、当時好景気に沸いていた筑豊の炭鉱町、八幡製鉄所があった北九州市、福岡市、海軍工廠があった佐世保市、三菱造船所があった長崎市へと販路が拡大していきました。

交通の発達とともに大阪、国外として台湾まで鮮魚として出荷されました。加工品としては、大正初期から昭和初期までは、2つの会社がカキをボイルし缶詰めにしてアメリカに輸出いたしました。鮮魚としての収穫が終わった3月以後、売れ残った牡蠣は5月の抱卵期以降に収穫し、むき身としボイルした後、天日または干しアゲマキを乾燥するために使われていた乾燥機で煮干し牡蠣とし(図17), 中国へ輸出されました。

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図17.天日による煮干カキ作り

このように牡蠣養殖は大正時代から昭和30年ころまで、有明海漁業の中心的存在として君臨し続けてきました。しかし、昭和27―28年に、稲作に打撃を与える害虫ニカメイチュウやウンカ、果樹に打撃を与えるシンクイムシが大量発生をしたため、これらの害虫駆除に威力を発揮する極めて毒性の強い有機リン系農薬ホリドールを輸入し、水田・果樹園に大量散布がなされました。この農薬が大雨や雨季の増水で河川を経て有明海に流入し、牡蠣の幼生、稚貝の大量へい死をもたらす大被害が発生しました。

また昭和35年から水田の除草の労を省くため散布され始めた除草剤PCPが梅雨期の増水期に大量に河川を経由し湾内に流入し、再び、牡蠣の幼生、稚貝の大量へい死をもたらす被害が発生しました。これらの農薬被害により、有明海の牡蠣養殖地は壊滅的被害を受けることとなりました。昭和30年代には多くのカキ漁民は牡蠣養殖を断念し、より安定し収入の見込める海苔養殖に切り替えていきました。

海苔養殖と牡蠣養殖は同じ干潟を使用し行われ競合する上、カキ礁やカキ養殖の篊建が海苔養殖の網の設置に邪魔となるという理由で、明治以来、独自の発展を遂げながら続けられて来た有明海のカキ養殖は海苔養殖に置き換えられほぼ終焉を迎えることとなりました。

現在では、鹿島市浜漁協の4人から5人のカキ漁師が鹿島市の塩田川河口でスミノエガキとシカメガキを養殖し、年間120トンほどの生産高を上げているだけです。カキ漁師の1人によると、これらのカキは魚市場を通さず長崎名物の長崎ちゃんぽんの老舗中華料理店(複数)と契約し、これらの店に鮮魚として卸しているとのことでありました。その店の長崎ちゃんぽんの美味しさの秘密は、開業以来、牡蠣からとったスープをふくむ企業秘密のスープによるところが大きいとのことで、今後も有明海産のカキの需要は続くとのことでした。

II.牡蠣養殖文化史―シカメガキ=アメリカのオイスターバーで人気のKumamoto oyster.

1. シカメガキとは
シカメガキ (Crassostrea shikamea (Amemiya,1928)) の和名も学名も有明海でスミノエガキに混じり生息する皺が多く成長度が悪い矮小形で、方言でシカメと呼ばれている牡蠣(時に、シワメ、シワガキとも呼ばれる)に由来します。当初、東京大学の雨宮育作(Amamiya, 1928)は河口の澪筋に多く生息するこの牡蠣をマガキが通常生育する汽水域より塩分濃度が低いところで成長した変異型としてCrassostrea gigas var. shikamea, var. nov. として報告しました。

その後、東北大学の沼知健一(Mumachi、1959)や バンクスほか(Banks et al.,1994) はシカメガキの卵子はマガキの精子で受精するが、その逆は受精せず、両種間に生殖的隔離が存在することが報告され、アーメッド(Ahmed, 1973)によりマガキとシカメガキの染色体の核型が異なることが明らかとなり、また最近ではDNAの塩基配列に基づくマガキとの分子距離がカキ類の異種間の違いの最小レベルに達していることなどから、現在では独立種として取り扱われています。

私のDNA塩基配列データに基づいて確定された本種の分布はスミノエガキのアジア大陸沿岸分布よりさらに南方のベトナム沿岸に及んでいることが明らかにされ、地理的分布においてマガキの分布と大きく異なることが判明しました。両種の分布が重なる、黄海、渤海湾,有明海、不知火海で両種が同所に共存する場合でも、互いの形態的特徴は維持されており生殖的隔離は確立しているものと考えられます。

私は、養殖カキのブランドKumamoto oyster の原産地である熊本県不知火海北部の干潟で、カキ礁を構成する直立した大きなスミノエガキの殻の表面に隣り合わせに何固体も固着しているマガキとシカメガキをDNA の塩基配列データに基づき確認しています。シカメガキは生態的適応性が高い種と言えます。

有明海や不知火海で知られる塩分濃度の低い河口域の泥底環境は本種の生態の一端に過ぎません(図18、左)。香港やベトナムの湾口部では、塩分濃度もかなり高い海水が満潮時に覆う基盤岩や礫岩上にイワガキ類と共存しイワガキ類に形態上酷似する本種が固着しております。

また外洋に面したサラサキサゴやタイワンハマグリなどが生息する遠浅の砂浜で巻貝などの死殻に付着し単独で成長した本種は左殻が深いカップ状になり、一見Kumamoto oyster を彷彿させる殻形をとっています(図18、右)。


図18.シカメガキ. 左の個体. 佐賀県鹿島市浜沖. 殻高:10cm;右の個体。香港産。殻高:3.8 cm

2.シカメガキの養殖
先に記したように、佐賀県藤津郡鹿島村(現鹿島市)の村田楽太郎氏が明治42年(1909年)に著した「佐賀県藤津郡牡蠣養殖事蹟」には、幾多の試行錯誤を重ね、篊建(ひびたて)式、小石の並列式、瓦による採苗のめどが付き、明治21年には先駆的な養殖法の確立しカキの安定的な生産の目途がつくと同時に、この技法は杵島郡(塩田川と六角川にはさまれた地域)、佐賀郡(現在の小城市と佐賀市が含まれる)とその近隣地域である筑後川河口域へと普及したと記されています。

現在、鹿島市の塩田川河口で牡蠣養殖を営むカキ漁師の話によるとカキ礁で採集されるカキはほとんどがシカメガキで かき礁を取り巻く水深のより深い泥底にスミノエガキが自生しているとのことでした。カキ礁にはカキの死殻の上に成長をし、発展を遂げた自然の小カキ礁も存在しますが、鹿島市浜町地先には、かつてカキ漁師が岩石を投入し並べた地点に列をなしたシカメガキからなる大きなカキ礁が発達していますので、投入した岩石や瓦の上にシカメガキを中心とした稚貝が付着し、次第とシカメガキが主構成種となるカキ礁が発達していったことが考えられます。佐賀県の有明海湾奥部にあるカキ礁にはこのような経過を得て樹立されたカキ礁も少なくないと思われます。

有明海や不知火海では、取り立てて、シカメガキ養殖法というものはありませんが、篊建式採苗器にはスミノエガキに混じりシカメガキの幼貝も付着しますのでスミノエガキの養殖では主体となるシカメガキに混じりシカメガキも生産されます、また漁師の手を経て出来上がったと考えられるカキ礁から多くのシカメガキが採集され、図16(左)に示されるシカメガキ用のカキ打ちでむき身が取り出され、主として煮干し牡蠣として台湾、中国に輸出されました。

シカメガキと言えば、第2次大戦直後に、熊本県不知火海で牡蠣組合により採苗されアメリカ(西海岸)に向けて輸出されたた種牡蠣のなかに含まれていたシカメガキを基に養殖銘柄としてのKumamoto Oyster が作りだされことは良く知られています。現在Kumamoto Oysterはワシントン州北西部ピュージェット・サウンド、カリフォルニア州北西部のハンボルト湾、メキシコのバハ カリフォルニア湾などで養殖されています。

Kumamoto Oysterはニューヨークやサンフランシスコなどアメリカの大都市のオイスターバーでのブランドメニューとなり牡蠣食のビギナー、女性のカキ食愛好家から通のカキ食者までを虜としています。
本家の熊本県も不知火海のシカメガキを使って和製Kumamoto Oyster の作成に鋭意取り組んでいますので(中野2007. 、水産研究センターニュース ゆうすい第15号、他)、日本のオイスターバーに和製ブランドのKumamoto Oysterが早く出現することを期待しております。

福岡県有明海研究所でもニューヨークのお洒落なオイスターバーのようにカキの食べ比べを楽しんでもらえるような環境を福岡に作ることを目標とし、近年、有明海産のスミノエガキとシカメガキの採苗技術の開発を行うとともに、これまでの地蒔きの牡蠣養殖に代わり真珠養殖に使われるあんどん籠などを使った海中養殖法などの基礎的な研究を筑後川河口域で行っています。(伊藤・松本2013. 福岡水海技セ研報、第23号、他)
近い将来、有明海や不知火海の固有カキ;スミノエガキとシカメガキの刷新された養殖法が開発され、有明海や不知火海での養殖カキ漁が復活する日が来ると思われます。

一方、有明海の牡蠣養殖の中心地であった佐賀県では、平成11年から、諫早湾から佐賀県南部の海域でマガキの垂下養殖が行われています。この養殖では、11月から12月に宮城県より稚貝を購入し、4月から5月まで抑制した後、11月中旬まで本垂下を行い、12月から翌年の3月から4月にかけて収穫しており、近年では年間300-500トンの収穫量をあげるまでになっております。

収穫されたマガキの大半は佐賀県太良町の国道207号線沿いに並ぶ「カキ焼小屋」で消費されています。特に冬場には、北風から守られた大きな小屋掛けハウス内に多くのテーブルが並べられ遠くは福岡市内からも多くの客がこれらのカキ焼小屋を訪れ、国道207号線はカキ焼き街道と呼ばれているほどです。

III. 伝統的な野生マガキの採集風景―天草における冬から初春の風物詩

私は、天草下島の羊角湾の干潟に生息するウミニナ類の調査で本年3月20日から23日まで天草市に滞在しました。この調査では、今回の保全プロジェクトの副責任者を務める天草自然研究会代表の吉崎和美氏に加え同会の会員4名が参加して実施されました。天草下島はかって私が勤務していた九州大学理学部地質学科における学部3年の必修科目・地質調査法の調査地域になっており、当時学科の助手を務めていた私は同僚と毎年春・夏の休暇を使って学生指導のため現地を訪れました。 

宿舎としていた苓北町にある生物学科所属・天草臨海実験所に朝・夕近所の仕出し屋から運ばれる食事で会食し、用意された昼のおにぎりを持参し山地に分け入り、谷沿いや山道に露出する地層や岩石を調べ、時には波しぶきを浴びながら海岸沿いに露出する地層を調査しました。夜は、ビールや酒を飲みながら年齢の近い学生と遅くまで議論し親交を深めた思い出深い場所です。

久々に訪れた天草には、昔と少しも変っていない美しい照葉樹林の山々、美しい海、人々の営みがあり、さわやかな春風が吹きぬけておりました。羊角湾の干潟の調査を終え名古屋に戻る前日の午後、吉崎さんの提案で崎津教会のある崎津集落を訪れました。

崎津に向かう途中、河浦町今富小島の干潟で地元の婦人数名が、カキ掻きをしている光景が目に入ってきましたので、道路脇に車を停車し牡蠣の採集を見学に干潟に降りていきました。婦人たちがカキを採集している干潟は天草でも有名な青のりの採集地とのことで、秋の終わりから春にかけて地元の主婦らが青のり採集と岩に着いている牡蠣の採集にたびたび訪ずれるそうです。訪れた日(3月22日)は、すでに青のり採りのシーズンは終わり干潟の一部に深緑の青のりがうっすらと覆っておりました。カキを採集している中年の婦人に尋ねると、今シーズンの最後となるカキ掻きに来ているとの事でした。採集した牡蠣は夕方のクール宅急便で大阪に住む息子、娘の家族あてに送ってやるとのことでした。


図19.干潟の礫上に固着するマガキ


図20.干潟でカキ剥きをする地元の主婦


図21.カキ剥き道具で素早くカキの身が取り取り出される


図22. 収穫された丸々と肥えたマガキのむき身

岩に着いているのはすべて1年から2年物の中型で殻が膨らんだ美しいマガキでした。採集は先端が湾曲し尖ったカキ打ち道具を牡蠣の両殻に間に上手に打ち込み、右殻をこじ開け、カップ状の左殻に残った牡蠣の中身をカキ打ちのとがった刃崎で壊さずにすばやくかきだして行います。長い間、カキ打ちをやってきているので身に着いた動作で考えずにカキの身を取り出すことが出来るそうです。

平地が少ないため米や穀物が十分に取れなかった天草では、古来、干潟や渚での魚貝類や海藻の磯採集は婦人にとって大切な仕事の一部となり、とりわけ秋から春にかけての干潟での牡蠣採集は安全で確実に多くの収穫物が得られるので年中行事となっているとのことでした。
婦人たちにお礼を述べ、道路に戻りしばらく車を走らせトンネルを抜けると春霞の中に崎津教会の十字架を乗せた尖塔が見えてきました。(図23)


図23.春霞に煙る崎津天主堂


図24.ゴシック様式の崎津天主堂


図25.教会への通りにある「南風屋」


図26.南蛮文化が伝来した羊角湾の湾口部

羊角湾の入り口に位置する崎津集落はキリシタン集落であったため、島原・天草の乱や、乱の後の長崎奉行所によるキリシタンへの厳しい取り締まりがあったにもかかわらず、潜伏キリシタンによって信仰が守り伝えられてきたところです。

集落のシンボルである崎津教会(図24)は禁教時代に踏絵が行われた庄屋宅跡に建てられました。日本におけるキリスト教の伝来から弾圧、復活を示す崎津集落は『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の構成資産として世界文化遺産への登録をめざしており、今年の7月下旬ユネスコの世界遺産登録委員会で登録される可能性が高いと地元での期待が高まっており、天草市の肝いりで現在教会への通りに面した古い家屋や道路の修復・が改修なされておりました。

教会の前の狭い路地にある郷土文化伝承館「南風屋」の看板(図25)が示すように、静かな内湾・羊角湾が外海と接する岬(図26)に位置する崎津には南方からいち早く南蛮文化や琉球の文化が伝えられました。ゆったりとした時間が流れる歴史の地・崎津で春の午後を満喫した私たちは夕暮れの集落を後にしました。