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第1回 中国におけるカキ養殖の開始

小澤智生

中国沿岸の山東、江蘇、福建、広東、海南島、台湾には新石器時代(約4,000~6,000年前;日本の縄文時代)の牡蠣殻を多量に含む規模の大きな貝塚が知られています。

広東省東部の潮州市西部の陳橋貝塚出土の石器の中には、現在の牡蠣殻剥きの刃先と形状が似ており、牡蠣剥き専用に製作されたと考えられる先端が尖った石器が数多く含まれており、当時の沿岸民にとって牡蠣は身近でいつでも得られる重要な食料となっていたことが分かります。

中国における牡蠣養殖がいつ始まったかについては、中国の牡蠣に関する書物の中に2,000年前にさかのぼるという記述があるものの、それを裏付ける文献については書かれていません。

歴史書によれば、中国における牡蠣養殖は北宋時代に始まったと記述されています。宋史の中に、広東、福建、台湾の沿岸地域での挿竹法の牡蠣養殖の記述があるので、これらの地域では宋代には挿竹法の牡蠣養殖がなされていたことが分かります。

中国における最初の牡蠣養殖は、北宋時代における広東省珠江デルタ地帯の投石牡蠣養殖でした。この地域での当時の牡蠣養殖の様子は北宋の著名な詩人 梅 堯臣(ばい ぎょうしん、1002-1060)による宋詩「食蠔」に書かれています(図1)。この詩は南宋の祝穆が編んだ『古今事分類聚』の後集巻三十五に「梅聖兪」として載っています2)。

梅 堯臣は湖南省の田舎の庶民出身で科挙試験を受けずに自ら勉学に励み政治家となり多くの省の県令(県知事)を経て、科挙試験で最難関のコース修了者に与えられる「進士」を賜り、科挙試験の副審査委員長などを務めた官僚政治家でありましたが、一方で筆名「聖兪」として、これまで詩の対象とならなかった田舎の人々の暮らしの情景、田舎の四季の風景などを好んで取りあげ、その詩風によって宋詩の基礎を創り上げたと言われています。

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               梅 堯臣

梅 堯臣は勤めていた県令任期を終え、他省の新県令として赴任する前の休暇を利用して友人と嶺南地方を旅行しました。その際、梅 堯臣は、広東省の珠江河口域の牡蠣漁村帰靖(現在の深圳市沙井)に立ち寄り、生まれて初めて生牡蠣を食しその美味に驚いたことを書き残しています。当時の牡蠣漁村帰靖での牡蠣養殖の情景は五言古詩「食蠔」190字の中に描写されています。(図1)
以下には詩の和訳を紹介します。

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図1.古今事分類聚に集録されている梅堯臣の詩(食蠔)2)

食蠔(カキを食す)

私めは海辺に旅行することになったが、つねづね、靖康の牡蠣の評判を聞いていた。
(靖康:現在の東莞市麻湧虎門の一帯。珠江が海に注ぐところ)
いつも一度食べてみたいとは思っていたが、それほどには(靖康の牡蠣について)調べていなかった。
聞いた話によると大きな波の中にいる、六鼇のようにゴツゴツと大きなもののようだ。
(六鼇:神話中の、五つの仙人の山を背負った六匹の大亀)
また、現地の漁民たちが海の中にいて、海に竹製の囲いを作っている。
カキの種の付いた石を囲いの中に入れ、風や波の衝撃にそのままさらす。
うま味が日々に増し、海辺に多量に繁殖する。
台所では、強い炭をおこし、アカザとヨモギで牡蠣を炙る。
焼き上がった牡蠣を食べようとすると、殻を固く閉ざしまだ食べられることから逃げようとしている。

こっそりとカラの隙間から覗くと、清らかな牡蠣の身に珠のような脂が浮いている。
人は言う小さい魚を食べるのは、その費やす力に比して得るところが少ないと。
牡蠣の場合は、さらに鉄や石のように固く、殻を剥こうとすれば小刀を使わねばならない。
力を入れてやっとこじあけても、それで得られる身は牛の毛のようにわずかである。
この食べることの大変さを論じれば、お腹いっぱいに食べようとしてもむさぼり食うことができないということである。秋風が吹く頃には、スズキのなますを食べたいと思い、霜が降りるころには、カニの足を手に持つ。

また、ヒツジのあばら骨を切り揃え、牛の臀部を切り落とした大きな切り身を用意する。
大皿が空っぽになり、箸は放り投げられ、スープがなくなり釜の底がさらえられる。
これは自然の恵みをあらわにしたものであり、満足さも一番である。
牡蠣は美味しいのだが、その美味にありつくのはたやすいことではない。
牡蠣を放り投げてその土地の人に返せば、誰が理財にたけることができようか(というほど牡蠣に夢中になってしまう)
以上の詩の記述から帰靖における牡蠣養殖法は河口域に竹製の囲いを作り、その中に石を置き付着した稚貝を育てる投石養殖法であったことが分かります。これは次回のブログで紹介する資料の中にある投石採苗と投石養殖にあたります。この養殖法は現在でも中国南部で広く行われています。この投石養殖が中国で最初に行われた牡蠣の養殖法ということになると考えられます。また先に記したように、宋時代には、中国中南部、台湾などで干潟の泥中に竹竿を挿入し竹に固着した稚貝を育てる挿竹養殖法も開始されたという記述が残されています。

明朝時代になると鄭鴻圖による著書『業蠣 考』により牡蠣專業者のための插竹牡蠣養殖法が系統的に紹介され、明,清時代に中国各地に挿竹養殖法が広く行き渡ります。
清王朝乾隆年間(1736年 - 1795年)には、牡蠣養殖が開始された沙井地区の牡蠣養殖面積は200顷(200ケイ)(=約12.3ヘクタール)に達していたことが記録されています。

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珠江デルタ沙井地域のかつての牡蠣養殖風景(左は牡蠣剥きの様子(図2)、中(図3)は牡蠣養殖田より潟スケートで帰還する牡蠣漁民、右(図4)はセメント板上に固着した稚牡蠣の成長に伴い、セメント板の間隔を広く置き換える作業)

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珠江デルタ沙井地域の近年行われていた挿竹養殖風景(左(図5))、はえ縄式養殖場における牡蠣の採集風景(右(図6))

なお、北宋時代以降、珠江デルタで養殖されていた牡蠣は現在でも珠江デルタで養殖されているホンコンガキ(Crassostrea hongkongensis)であると考えられます。
近年、牡蠣養殖が始まった沙井集落内の学崗大道の改修で、地下4mまでの地層を掘り出した際、地下4m付近の保存良好な厚い牡蠣殻(養殖で生産された牡蠣殻)を多く含む層から数枚の古銭、建炎通宝 (南宋の建炎元年~4年 (1127~1130年に鋳造)が出土しました。この古銭の時代は、梅 堯臣が同地域を訪れ牡蠣養殖を記録した北宋の年代から約100年後となります。
中国での牡蠣養殖がいつ始まったかを明らかにすることは中国のみならずアジアの文化人類学にとって重要なことであるので、牡蠣漁村沙井において地下4m以深の地層の学術調査を行ない、珠江デルタでいつ牡蠣養殖が開始されたかを明らかにすることが望まれます。

一方、西洋では、古代ローマ帝国時代の3-4世紀には、すでに牡蠣養殖がおこなわれていたことが明らかにされています。帝都ローマには広大な帝国内および属州から得られた多くの産品が集められ、物質的に満たされたローマ市民とりわけ貴族階級はこの上なく贅をつくした日常生活を送っていたことが記録されています。宴会には、帝国内や属州から集められたさまざまなグルメが用意されたが、その中には当然ながら牡蠣も含まれていました。

 牡蠣では、属州ブリタニア産(大ブリテン島東部と対岸の小ブリテン=ブルターニュ地方が含まれる)、ローマの南東約100㎞にあるキルケーイー産、バイアィ(Baiaeローマ時代の地名、現在のBaia;ナポリの東方) のルクリヌス湖などのものが特に貴ばれ、ルクリヌス湖のものは養殖であった4)。古代ローマ人はタイルなどの牡蠣の浮遊幼生が付着する人工の付着器を作り、付着した幼苗を育てるという牡蠣養殖技術を持っていました。

バイアィ のルクリヌス湖での牡蠣養殖の方法は、古代ローマ時代3-4世紀のガラス瓶にバイアィの景観を描いた作品群があり、その中にOSTRIARIA(牡蠣養殖場)の銘の瓶があり、その表面に、木の棚が組まれ、棚から牡蠣が紐で吊るされている状況が刻まれているので当時の棚式養殖法がよく理解できます5)
ちなみに、古代ローマ人が食していた牡蠣はヨーロッパヒラガキ(Ostrea edulis)でありました。

本小文を終わるにあたり、梅堯臣「食蠔」詩の日本語訳をしていただいた名古屋大学大学院文学研究科佐野誠子准教授にこの場を借りて深謝を述べたいと思います。

主要.参考.引用文献:
1)郭培源 程建著 『千年傅奇沙井蚝』海潮出版社、北京、278 pp.
2)梅聖兪(出版年不明)「食蠔」詩」In祝穆編『古今事文類聚』後集巻三十五.
3)深圳市宝安沙井水産公司・宝安沙井蠔民族文化研究会刊 「蠔郷蠔郷」游歴沙井蠔文化博物館、12 pp.
4)弓削 達著 『素顔のローマ人』生活の世界歴史〈4〉素顔のローマ人。河出文庫、1991/8)
5)藤井慈子itaken1.jimdo.com/2011/05/30/古代ローマ時代のガラス/
http://itaken1.jimdo.com/2011/05/30/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B9/